OSHO チェルノブイリについて語る

OSHO チェルノブイリについて語る

[ OSHOへの質問 ]

愛するOSHO。

このところ私は地面が自分の足元で

崩れていくような感じをよく味わいます。

私にはまるで私が愛しているもの

或いは過去に私が愛してきたものが

すべて壊れていくように思われるのです。

最近ソビエトで起こったあの原子力発電の大惨事は

すべてがどれ程はかなくまた束の間のものであるかということを

痛い程はっきりさせてくれました。

両親、息子、兄や妹、友達そして愛する夫・・・

すべてが危険にさらされています。

今この瞬間しかないと考えることは

私にはとても辛いことです。

私はおそるおそる自分に「次には一体何が起こるのだろう?」と訊ねています。

でも、誰が誰に訊ねているというのでしょう?

すべてが余りにも不条理で余りにも空しく思われます。

時には自分が気が狂うのではないかと思うこともあります。

愛するOSHO。これは成長の一部なのでしょうか?

それとも病気に過ぎないのでしょうか?




[ OSHOの応答 ]

大災害というものは、人をあるがままの現実に目覚めさせる。

現実は常に壊れやすいものだ。誰もが常に危険にさらされている。

ただ平常なときは、ぐっすり眠りこけているために

それが見えないだけだ。

来るべき日々に対して、将来に対して、夢を見続け

素晴らしいことを想像し続ける。


だが危険が差し迫ってきた瞬間には

人は突然未来はないかもしれないということに

明日はないかもしれない

自分には今この瞬間しかないということに気が付く。

だから、大災害の時というのは、非常に啓示的なものだ。

大災害は、この世に何一つ新しいものをもたらさない。

それはただ、あるがままの世界に気づかせるだけだ。

それは人の目を覚まさせる。

それを理解しなければ、気が違うことも有り得る。

それを理解すれば、目覚めも起こりえる。

(中略)

この瞬間をどう使うかは、その人次第だ。

恐慌に陥ることもできれば、気が違うことも有り得る。

恐怖にしびれ、涙にくれることもできる。

だがそれでは、自分の家族にも、自分の友達にも

或いは自分の愛する者にも、何の役にも立ちはしない。

それは自分にとっても何の役にも立たない。


このロシアに起こった災害は

まさに少しでも知性のある人間なら

自分の時間をもっともっと

瞑想にささげ始めることができるような状況をつくり出した。

何しろ本当に、明日が不確かなものだからだ。

それは常に不確かだったのだが

今となってはそれはこれまで以上に不確実だ。


この災害は、これから起こる一連の災害の

始まりに過ぎないかもしれない。

こういう原子力発電所は全部

決して本質的に安全なものではないからだ。

もし何かがまずく行ったら、そして今や我々は

一つの発電所がまずく行ってしまったことを知っているのだが

そうなったら彼らにはどんな力もない。

彼らはただ無力なのだ。

彼らは自分たちがつくり出しているエネルギーを制御することができない。

同じ災害がアメリカにも起こり得るし、ドイツでも起こり得る。


焼失したこの発電所にすぐ並んで、同じ年齢の発電所が二つある。

その二つは、同じ時期に同じ設計で作られたものだ。

それには同じ欠陥があるに違いない。

直ちに二つ目の発電所が飛ぶという可能性はいくらでもある。

そして三つ目もそう遠いことではないだろう。

そしてそういう災害が

他の発電所で働いている何千人という人々に

恐慌状態を引き起こすことも有り得る。

彼らは所謂その制御された態度というものを失うかもしれない。

彼らはただ熱に浮かされたような取り乱した状態で

これまで犯したこともないような過ちを犯し始めるかもしれない。

しかもそれは、間違ってボタンを押しただけで

起こりかねないことなのだ。


だが、人間はこれを大いなるときとして用いることもできる。

私たちはみんな、常に危険にさらされている。

あなた達もこの古いことわざを知っているだろう。

誰がために鐘は鳴る、と尋ねることなかれ。
そは、常に汝がために鳴るものなり。

誰かが死ぬと、教会の鐘が鳴って、村中にそれを知らせる。

だが決して、その鐘が誰のために鳴っているのかを

聞きに人をやってはいけない。

その鐘は常に、汝のために鳴っているのだというのだ。

たった今死んだのが誰だとしても、その死はすべて自分の死だ。

なぜなら人の死はすべて

自分は永久にここにいるのではないということを

思い出す縁(よすが)だからだ。

人の死はすべて、目を覚ますための機会だ。


死がやって来る前に、死を超えたものを達成するために

生の機会を使いなさい。

心配しても仕方がない。

そんな事をしても、この瞬間を見逃すことになるだけで

誰に役にも立ちはしないからだ。

しかも危険にさらされているのは

自分の両親、自分の友人、自分の愛するものだけではない。

全世界が危険にさらされているのだ。

それはただ、今日危険な目に合うものもあれば

明日危険な目に合うものもあるだろう、

が、いずれにせよ危険はある。


としたら、その危険の超越の秘法を学ぶのだ。

その秘密というのは、もっとトータルに

もっと全身全霊で生き始めるということだ。

もっと油断なく醒めていなさい。

そうすれば自分の中に

死の手を触れることのできないものを

見つけることができる。

それこそが唯一の避難所、唯一の防衛、唯一の安全だ。


そしてもしあなた達が

自分の友人、家族を助けたいと思うなら

その人たちにこの秘密を教えてあげなさい。


今度起こったことは、これから何度も何度も起こることになる。

原子炉か発電所は、非常に沢山あるし

それも技術ノウハウを知らない

技術的にはまだ牛車の時代にいるような

ほとんど2、3千年も、遡ったような未開の国にまで

設置されているからだ。

(中略)

災害は起こらずにはいられない。

これはほんの始まりに過ぎない。

目を覚ますためにこの機会を使いなさい。



OSHO(和尚)『神秘家の道』市民出版社

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