ハイデガー 原子力時代(アトミックエイジ)について語る

ハイデガー
原子力時代(アトミックエイジ)について語る
(1955年10月、同郷の音楽家クロイツァーの誕生175年祭に際して、スイス国境に近い南ドイツ・メスキルヒで一場の講演を行う)

思索の喪失こそは

今日の世界において

至る所に出入りしている不気味な客である。


今日では、人々は何もかも

ものすごく安直に手っ取り早く覚えてしまうかと思うと

すぐにまたそれを忘れてしまう。


こうした思索の喪失の底にあるのは

実は“思索からの逃避”にほかならない。

多分、現代人はそのことを否定するでしょう。

今日ほど企画と研究と調査が活発になされている時代は

いまだかってなかったではないかといって

反駁してくるかも知れない。


それはまったくその通りでしょう。

しかし、そういう企画・研究・調査の根底にあるものは

実は本来の思索なのではなく

“計算的思考”でしかないのです。

それはいつも与えられた環境を計算に入れながら

何らかの計算された意図の実現を目指しているところの

計算的な思考なのです。

それはたえず新しい、もっと見込みのありそうな

いろいろな可能性をはじきだして

次から次へと移って行きます。

計算的な思考は、けっして静かに立ちとどまって

省察に身をゆだねるようなことはしないのです。

ものごとの意味を問うことはしないのです。


もっとも現代人の立場からすれば、そのような内省的な思索は

まったく現実離れをしたもの、現実の処理のためには

何の役にも立たないものと考えられるでもありましょう。

地盤を失って、空高く舞い上がっているものとも考えられるかもしれない。

しかし実はそうではないのです。

いやしくも人間が思索的な存在である以上

われわれは最も手近なものについて思いをいたすだけで

思索は充分に展開されうるはずなのです。

・・・・・・・・

その故郷は今日どうなっているのでしょうか。

天と地のあいだの人間の静かな住居は

まだ存在しているのでしょうか。

第二次世界大戦で多くのドイツ人は故郷を失ってしまいました。

自分たちの村や町から追放されたのです。

故郷が無事だったところでも、多くの人たちは

大都市の工業地帯に移って行きました。

それなら故郷に残っている人たちはどうでしょうか。

彼らは故郷を追放された人たちよりも

実はもっと故郷に遠ざかっているのです。

彼らはいつもラジオやテレビにしがみついています。

映画や週刊誌に心を奪われています。

そういったものの世界の方が

身のまわりの畑よりも

空よりも

日の出や日没よりも

村のしきたりや故郷の伝統よりも

彼らにはずっと身近なものになっているのです。


もう少し深く考えてみましょう。

現代におけるこういう故郷の喪失は

実は決して単に外部的な事情や運命で

ひき起こされてきているのではありません。

その根はもっと深く、われわれすべてが

そこに生み出されている時代の精神に由来しているのです。

そもそも何事がわれわれの時代に起こっているのでしょうか。


この時代は近ごろ原子時代などと呼ばれだしています。

この時代の一番の特徴は原爆です。

しかしこの特徴は前景に過ぎないかも知れません。

というのは原子力の平和利用が叫ばれ

原子力産業が巨大な企業と化する見通しもでてきたからです。

この年の7月、18人のノーベル賞受賞者たちは

「科学こそは人類のより幸福な生活への道である」という

共同宣言を発表しました。

果たしてそうでしょうか。

この人たちは原子時代の意味というものを

ほんとうに思索したことがあるのでしょうか。

そもそも何によってこういう時代が生まれ出てきたのでしょうか。


それは数百年来、人間のものの考え方に根本的な変化が起こり

それによって人間がひとつの現実のなかに移し入れられたことによるものなのです。

世界観の徹底的な革命が近代哲学において遂行されていきます。

それにつれて世界というものに対する人間の態度はがらっと変わってしまいました。


いまや人間は計算的思考の無抵抗な対象と化し

自然は近代技術と近代産業のためのエネルギー源と化するにいたったのです。

自然に対するこういう技術的な接近の仕方が始まったのは

17世紀のヨーロッパにおいてです。

それもヨーロッパだけにおいてなのです。


この夏ふたたびノーベル賞受賞者たちの国際会議が開かれ

その機会にアメリカの化学者スタンレーはこういっています。

「生命が化学者の思いのままのいなる日が近づいてきている。

化学者は生命を自由に破壊し変革することになろう」

こういう言葉を前にして、人々はどうして今や技術的手段による

生命と人間の本質とに対する侵略が企てられつつあるということに

思いをいたさいないのでしょうか。


これに比すれば水爆の爆発も物の数ではありますまい。

なぜなら、たとえ水爆が爆発せず

人間がこの地上に生命を存続するとしても

原子時代の進展につれてまことに不気味な変化が

地上に訪れることになるからなのです。

ほんとに不気味なのは、世界が徹底的に技術化されてしまうこと

なのではありません。

それよりもはるかに不気味なのは、世界のこういう変動をまえにして

われわれ人間のがわにとんと準備ができていないという

ことなのです。

いったい誰が、どこの国が、こういう原子時代の歴史的進展に

ブレーキをかけそれを制御しうるというのでしょうか。

われわれ原子時代の人間は技術の圧力の前に策もなく

投げ出されているように見えます。

われわれの故郷は失われ、生存の基盤はわれわれの足もとから

崩れ去ってしまったのです。

そこでいまわれわれはこう問わねばならない・・・

すでに基盤が失われてしまった今日、いったいどうしたら

新しい大地と基盤とがもう一度われわれ人間に与えられるであろうか。

この問いによって探し求められているものは多分は

非常に身近なところにひそんでいるのです。

この身近なものに至る道は内省的な思索の道にほかなりません。

これまでのように一面的に計算的思考の軌道だけを走り続けることをやめることなのです。

と申しても、技術の世界を悪魔の所産と考えるのではありません。

大切なことは、われわれ人間がそれの奴隷にならないということなのです。

技術世界のいろいろな事物を利用しながらも

それらにとって心をとられないということなのです。

それらに対して「イエス」と語ると同時に「ノー」と語ることです。

一言にして言えば、それらの事物に対して超然たる態度を持するということなのです。

このような超然たる態度のなかから、技術の世界を眺める新しい眼が開けてまいりましょう。

近代の歴史における技術の進展のなかには、たしかに何らかの意味がひそんでいるのです。

不気味なばでにせりあがってきている原子技術の支配が、
いったいどのような意味をもっているものなのか、もちろんわれわれは知っていません。

技術世界の意味は隠されているのです。

しかし実はその意味はたえずわれわれに迫ってくるという形において、われわれに隠されているのです。

そのようにおのれをほのめかしながら同時に隠れ去ってゆくものこそが

まさしく「秘密」と名付けられるべきものの特質にほかなりません。


技術世界ないし原子時代のこの秘密に対して

われわれがたえず身を打ち開いていることが大切なもうひとつのことなのです。

事物に対して超然たる態度を持しながら

同時に秘密に対してたえず身を打ち開いていることを通じて

従来とはまったく異なった態度でこの世界に処する道が開けてまいりましょう。

同時に新しい大地と基盤への展望もひらけてまいるのです。

いまや急速にくずれ去りつつある古い基盤が、いずれの日にか

装いを新たにして呼びもどされてくる日の訪れも期待されうるでありましょう。

それにしても、われわれ人間がいまこの地上で

危険な状況のなかにあることは否定せられません。

それはやがて第三次世界大戦が勃発して、全人類の破滅がやってくるかも知れないからというのではありません。

第三次世界大戦の危険がとりさられたときにこそ、まさにそのときにこそ

それよりもはるかに大きな危機がわれわれに迫ってくることになるのだ

とわたくしは叫びたいのです。

それは奇妙な考え方でしょうか。

計算的思考が究極の勝利を収めて

思索的存在としての人間の本質が

人間から奪い去られるかもしれない日の危険のことを

わたくしは念頭においてこう語っているのです。

斉藤信治著『哲学初歩』東京創元社
第8章「原子時代の秘密」

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